yakkunの趣夫生活

人生で大切なことは、全て映画が教えてくれた。

『デッド・ドント・ダイ』〜 シュールでユルいゾンビ・コメディ。だがメッセージはストレート。

(The Dead Don't Die 2019年 アメリカ R-15)
デッド・ドント・ダイ(字幕版)





『ストレンジャー・ザン・パラダイス』、『ミステリー・トレイン』、『パターソン』などのジム・ジャームッシュ監督によるホラー・コメディ。

主演は、ジム・ジャームッシュの作品に出演するには4度目となるビル・マーレイと、同じく『パターソン』に続きジャームッシュ作品は2度目となるアダム・ドライバー

ティルダ・スウィントンクロエ・セヴィニースティーヴ・ブシェミダニー・グローヴァーなどの豪華共演陣に加え、イギー・ポップRZAセレーナ・ゴメストム・ウェイツなど多くのミュージシャンも出演している。




あらすじ


アメリカの田舎町センターヴィルは、警察官は3人だけの平和な街。

そんなセンターヴィルでは、最近、大人しかった飼い猫が突然飼い主を襲ったりと、動物の異常行動の報告が相次いでいた。

ある朝、街唯一のダイナーで女性定員2人の変死体が発見される。




感想


ユルい、とにかくユルい

予告編を観た時点でもユルいと感じてはいたが、本編を観たら想像以上のユルさだった。

序盤は、長閑な田舎町のゆったりとした雰囲気を表現しているかと思ったが、ゾンビが登場してからも空気が変わる事はなかった。

ゾンビが急に出てきて驚かすようなシーンもないし、グロいシーンもダイナーの店員二人が襲われるところのみで、ゾンビ映画なのにほどんど血が流れるシーンがない。

その当のゾンビに至っては、首を切り落とすと血の代わりに黒い砂煙のような物が舞う。

ジム・ジャームッシュ曰く「死人に血は流れてないでしょ」とのこと。

おっしゃる通り。むしろ、なんかスタイリッシュです。


と言う訳で、スプラッターがあまり好きではないジャームッシュ監督による、あまり怖くないゾンビ映画が誕生した訳だが、ビックリさせられるシーンは無くとも、ゾンビが集団でジリジリと寄ってくるシーンは緊張感が漂います。



スプラッター映画のファンではないと言うジャームッシュ監督だが、本作からは近代ゾンビ映画の生みの親であるジョージ・A・ロメロへのリスペクトを感じる。

生前の記憶がゾンビの行動に影響されるところは『ゾンビ』でショッピング・モールに集まってくるゾンビそのものだし、あの墓地の雰囲気は『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』を連想せずにはいられない。

首を切り落としても動いたり、走って追いかけ来たりする「進化した」ゾンビに慣れてしまった我々にとって、本作のゾンビ達はそれほど恐怖の対象にはなり得ないが、敢えて「古典的な」ゾンビに拘ったところがジャームッシュ監督のロメロ監督に対する敬意の現れではないでしょうか?



映画に緊迫感を与えないのは、古典的ゾンビのせいもあるが、主演の二人の雰囲気にも依るところが大きいかと思います。

パトカーで街を回るビル・マーレイとアダム・ドライバーが醸し出す雰囲気が堪らなくのんびりしているのです。

そして、アダム・ドライバー曰く「テーマ曲だから」と言う理由で何度も劇中で掛かる、カントリー調の主題歌『デッド・ドント・ダイ』。

この曲が、田舎町の雰囲気にもピッタリで、これ又ゆったりとした気分にさせられるのです。



本作には、前述の「テーマ曲だから」発言の様な楽屋オチ的なネタが登場します。


変死体を見て直ぐにアダム・ドライバーが「ゾンビの仕業だ」と言ったのも驚いたが、その発言にさほど驚きもせず受け入れてしまうビル・マーレイにさらに驚いた。

「コメディだから、まあイイか」とスルーして観ていたが、後で驚きの事実が・・・。





ここからは、本編の内容、結末にも若干触れるので、知りたくない方は読まないでね。↓↓↓↓↓↓











なんと彼らは「既に台本で読んでいた」のである!

そんなのあり!?

さすがにこれは笑った。

しかしビル・マーレイは自分の出演シーンの分しか渡されておらず結末は知らない。

ジャームッシュの作品に度々出演し「ジムには貢献してるのに!」とビルの憤慨も納得である。



登場人物が台本に言及するのも約束破りだが、本作にはもう一つ「約束破り」が。


セレーナ・ゴメス扮する都会の女性が、男性二人とドライブの途中でセンターヴィルに訪れる。

これは今時の若者たちが、田舎をバカにして、自分勝手な行動をした上にゾンビの餌食になると言うお決まりのパターンかと思いましたが、彼らは意外に礼儀正しく、怪事件のニュースを見てちゃんと戸締りもする優等生。

これは予想に反して生き残り、しかも活躍しちゃうパターンか?

セレーナ・ゴメスだし。

と思ってたら、あっさりとゾンビの餌食となり、モーテルで死体で発見されるという・・・。

なんという皮肉。

ちゃんと鍵も閉めたのに。

見せ場もない。

セレーナ・ゴメスなのに

まんまとジャームッシュに、裏の裏をかかれてしまいました。




そんなユルいゾンビ・コメディの影には、実は現代社会へのストレートな警告が隠されています。

死んで尚、スマホ片手にwifiの電波を求めて彷徨う様は、完全に歩きスマホをしている人間そのものだし、ゾンビ発生の原因となる地軸の変化を引き起こすしてしまう政府の工事は、今現在、世界中で問題になっている環境破壊に対する警鐘に他ならない。


次々にゾンビの餌食となっていく人間たち。

自分勝手に地球をメチャメチャしてしまった人間に対する、「自然」からの強烈なしっぺ返しである。

そんな世界を生き残るのは、物質社会を捨て森に住む世捨て人と、矯正施設から逃げ出した純粋な少年少女達だったと言うところにも、何かのメッセージ性を感じます。



そう言えば、彼らは一度もゾンビに襲われていなかったなぁ。



クライマックス、既に台本も読んでいて「まずい結末になる気がする」と言いながらも、ゾンビの群れに戦いを挑むアダム・ドライバーの姿は、環境破壊の事実を知り地球の未来を案じながらも、根本を解決出来ずにエコバックを使ってる程度で戦っている気になっている、無力な我々の姿なのかもしれない。