私が、草彅剛くんの「憑依型」と形容されるその演技力に驚かされたのは、2004年の『ホテル ビーナス』が最初だった。
TVドラマでの草彅くんを見てはいたが、当時、草彅くんと言えば「『ぷっ』すま」「チョナン・カン」などのバラエティのイメージが強く、しかも草彅剛ではなくチョナン・カンとして主演するということだったので一体どんな映画になるのかと思っていたが、あんなに抑えた演技で感情を表現する役者さんだとは思ってもみなかった。
そんなわけで、既に前年に公開され世間的には評価されていた『黄泉がえり』は、順番が逆になる形でレンタルで観賞し、その後も映画やドラマで草彅くんを見てきたが、今回、改めて彼の演技に驚かされた次第です。
結果、第44回日本アカデミー賞では最優秀男優賞に加え最優秀作品賞の栄冠に輝き、その他様々な賞を受賞するが、その一方で、本作はトランスジェンダー描写に対して批判の声も挙がった。
しかし、内田監督自身も何かで言っていたが、問題意識を持ってもらうためには、まずは問題の存在事態を世に広めなければならず、その為にはある程度の過剰な演出でエンタメ性を持たせることも必要なのではないかと思う。
そういう意味では、本作は一定の成果をあげたと言えるのではないか。
シスジェンダーの俳優がトランスジェンダーの役を演じることに違和感を感じる気持ちも分かるが、問題を広く知って貰うために有名俳優を使って作品の認知度を上げるという選択肢は間違いではなかったと、私は思います。
実際に草彅くんは素晴らしい演技を見せてくれた。
特にその所作は女性そのもので、歩き方、タバコの吸い方、口元の隠し方、草彅くんが段々おばさんに見えてくる。
そして、草彅くんがトランスジェンダーを演じるという事には、演技力の他に、その「見た目」という理由があったとではないかと思う。
草彅くんは、同僚のトランスジェンダーを演じた田中俊介さんや吉村界人に比べると、圧倒的に見た目が男なのである。
外見と所作のギャップが、「心の性」と「身体の性」の不一致に悩む「凪沙」を演じる上では必要だったのではないでしょうか。
彼の演じる凪沙には説得力がある。
フラフラになるほど酔って帰ってきて、「なんで私だけ・・・。」と号泣するシーンは、まさに草彅くんに凪沙が憑依しているのを感じた瞬間だった。
もう一人の主役とも言える、「一果」の存在も忘れてはいけない。
一果を演じるのは、オーディションで選ばれた服部 樹咲さん。
内田監督曰く、樹咲さんとは撮影に入る前に一果の心情について説明することに時間を割き、撮影に入ってからは出来るだけ演技をしないように指導したのだとか。
その甲斐あってか、樹咲さんの一果はとても自然にそこに存在している。
変に演技をしていない事が、リアルな演技になっている。
セリフが少なく、表情の変化も少ないのに、一果は多くのことを語りかけてくる。
凪沙と一果、二人は反発し合いながらもお互いに母性の様なものを感じ始める。
最初は「子供は嫌いなの」と言い放ちながら、一果にバレエを続けさせる為にショーパブをやめ会社に就職する凪沙の行動はまさに母性からの行動。
しかし、その事に対し「そんなこと頼んでない」と苛立ちを露わにする一果の態度も、自分の為に苦労を選ばせてしまった事を悔いる母性の様なものではないかと感じた。
終盤の、一果の凪沙に対する行動は、凪沙の「娘」としてなのか「母」としてなのか、私は「両方」だと思います。
物語の中盤で、一般の会社に就職するために凪沙が面接を受けるシーンがある。
面接官の「おじさん」が、凪沙に対して理解があるように見せようとして逆に傷つける発言をしてしまうのだが、客観的に見れば「ダメな例」だというのが分かるのだが、実際に自分が「おじさん」の立場だったらどうするだろうか?
「普通」に接する事が最善なのだろうが、彼の様に理解があるアピールをしてしまうのではないだろうか。
本作が、性的少数派の人達を可哀想な存在として描いているという人がいる。
確かに主人公の凪沙や、彼女の同僚の「瑞貴」に関しては苦労しているように見える。
しかし、その他のショーパブ仲間である「キャンディ」「アキナ」「洋子ママ」は生き生きとしているし、少なくとも彼女達が差別を受けているシーンもなかったと思う。
瑞貴の様に、男に騙されて貢いでしまう事はLGBTではない女性にも起こり得る不幸だし、LGBTであることが不幸だと言ってるわけではなく、本作に不幸な人たちが登場してくるというだけの話である。
そもそも、そういった論争が起こる事自体、本作に話題性と影響力があることの証明で、内田監督の「問題提起」という狙いは達成できたわけだ。
本当に色々と考えさせられ人と話したくなる作品で、我が家でも、もう何日も事あるごとにこの映画について話をしています。